本について語りまSHOW

読んだ本について独断と偏見で語っていこうと思います。

自己カウンセリング日誌―第二夜―

現在気に入ってる5つめの病院で、こんなことを言われた。



「幼少期(思春期)のお辛い経験が、もしかしたらその不安定の根っこなのかもしれませんね。あなたのタイミングでもちろん構わないのですが、いつかは向き合うべき課題だと思います。」


なるほど、と泣きながら腑に落ちた。



わたしの睡眠障害も、大学へなぜか行けなくなったのも、外に一人で出かけるのが怖いのも、日々憂鬱なのも、すぐにイライラしてしまうのも、自傷行為をしたくなるのも、破壊衝動も、突然激しい希死念慮に駆られるのも、人を信頼できないのも、壁をつくってしまうのも、つねに嘘をついてしまうのも、


「なぜ?」って思っていたことに理由があるとわかったら、

なんだかすっと楽になった気がした。



もちろん、上記のことがすべてその経験によって引き起こされたものだなんて思わない。自己の怠慢だって当然あるとわかってる。


でも、その時の私にとって、

「わたしのせいじゃない」と思ってもいい免罪符が与えられたことは、


ほんとうに、救いだったんだよ。



わたしには家族がいる。



父、母、祖母、兄、そして自分。


大学2年まで、一人暮らしをしている兄を除いて、実家で共に暮らしていた。


現在わたしは一人暮らし。

正直、今、実家に誰が残っているかわからない。



わたしは家族を心の底から嫌悪し、軽蔑し、あわよくば離縁したいと思っている。



家族は出来の悪い人間の集まりだと思っているし、

殺したいと思ったこともあるし、

血が繋がっているという事実に、時折吐きそうになる(し、実際吐いた)。



一人一人長ったらしい文章で記すのは面倒なので、軽蔑する部分をキーワードで上げていこうと思う。



父:ヘビースモーカー(母が妊娠中も構わず吸っていた)、借金持ち、わたしに性的虐待(主に覗き)を行う、差別主義者、極度のマザコン

母:ヒステリックな言動、差別主義者、激しい感情型、精神未発達、支配型、息子が大好き

兄:ADHDの重症患者、わたしに性的虐待(下着泥棒など)を行う、転職回数4回、極度のマザコン

祖母:度重なる借金、差別主義者、息子が大好き


祖母と母は大変仲が悪い。父と母も仲が悪い。つねに喧嘩をしているので、その愚痴は子どものわたしたちにぶちまけられていた。

母は自分の言うことをよく聞く兄にべったりで、父は必死にわたしを取り込もうとしていたように思う。


互いに仲が悪かったり依存関係にあったりなんだのはあるが、基本的に人に興味が無く、自分自身にしか興味が無いように見える。


特段、事件を起こしたり、児相に連れてかれたりしたことはない。(警察沙汰になったことはあるけれど)。



だからこそだろうか、

小さな火が燻って、今になって吹き出したのかもしれないな。



当時のわたしは、なんだかおかしいなと思いながらも、次第にそれが確信に変わってきてもなお、

なかなかそこから完全には逃げようとしなかった。


心身が既に衰弱していたんだと思う。

どうでもいいやってなってたように思う。



もうあまり、覚えていないけれど。



自己カウンセリング日誌 ―第一夜―

人生で6回ほど、カウンセリングを受けたことがある。



学校で3度、病院で3度。

もしかしたらそれ以上あったかもしれない。が、正直よく覚えていない。


唯一確かであることは、一度も役に立った試しがないということか。



そもそも、

メンタルクリニックにかかるきっかけが、自分自身が辛いからとかではなく、

他人に迷惑をかけるから、という、いわば消極的な理由なわけで、


カウンセリングのような積極的な治療法とは最初から合うわけがないのである。


さらには、

単にカウンセラーを信用しきれない、話すのが面倒になると嘘をついてやり過ごそうとしてしまう、などの私個人の性格の問題もある始末。



しかしここ最近、急速な精神の低迷・混乱を感じ、

このままでは本当に自殺か入院か刑務所行きになるなぁと薄々感じ始めたので、


カウンセリングが嫌だなんだと甘ったれたことを言っている場合ではないと判断した。



他人に話せないのであれば、

自分自身で向き合うしかない。



つまりこれは、


わたしの、

わたしによる、

わたしのための、

カウンセリング日誌なのである。



…それをなぜ、結局他人の目に触れるような形にしているかって?


それはまぁ、わたしにもよく分かりません。






※支離滅裂な、駄文が続くおそれがあります。自分のための日誌なので読めれば十分だと思い、流れるまま記そうと思います。

どうぞよしなに。


生の淵~短編~

生の淵に立っている。


正確には立っているのではなく、淵に足をかけて、そのままぶら下がっているという方がよいのかもしれない。


これは、わたしの意思でこうなっているのではない。


わたしは、だれかの意思で、この世に生み落とされ、だれかの意思で、この淵に足をかけさせられ続けている。


こんな脆い呪縛など、わたし自らの意思で、重心を揺り動かせば解けるというのに。

もしくは、わたし自らの意思と、だれかの意思が、互いに維持に限界を迎え、衰弱したとしたら。


それでもなお、こうして足をかけているのは、だれかの意思が、わたしのつま先を絡みとって離さないからであり、わたし自らの意思もまた、それを拒まず、その呪縛を受け入れ支えられることを受容したからにちがいないのである。


しかし、生の地は波打つ。

微かな地響きが、わたしのつま先を掠め取ろうと、静かに、明確な意思をもって、わたしに襲いかかってくる。


その度に、かりそめの呪縛は弛み、一つひとつ、わたしから離れていく。


わたしはそれを拒まず、ただ、生の揺れに身を任せ、ただ、誰かの意思が緩むのを待ち、ただ、わたしの生の行く先を見据えるのみである。


だが、その揺れも長く持続するものではない。


しだいにそれが収まれば、触手はまた、静かに迫ってわたしの指を求め、掴み取り、わたしはまたそれを受け入れる。


なにも変わらない繰り返し。

わたしが「生きる」ことは、この繰り返し。


ただひとつ言えるのは、あらゆる意思の外側で、わたしのつま先は一歩ずつ、確かに、淵の終わりへとずれ進んでいる。


そして、わたしはただひたすらに、眼下に広がる死の世界を、いつまでもいつまでも見つめながら、この生の淵に、足をかけ続けているのだ。


~二項対立と教養小説的知見からみるヘッセの魅力~ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

 こちらでは本当にお久しぶりです、aruhonzukiです。


 初回と前回までは自分の専門(?)分野ではない現代作品について語らせていただきましたが、今回もまだまだ専門外の海外作品について語りたいと思います。


 さて、皆さんおなじみヘッセといえば、「そうかそうか」君の登場する「少年の日の思い出」にもあるように、子どもから大人へと成長するまでの過程を通過儀礼も含め、あるモチーフとともに描いている作家というイメージが(私の中で)あります。


 そこで、今回は「大人になるとはどういうことなのか?」に対するヘッセの解釈と、作品内における二項対立要素である「国家↔市民」が表れている箇所についてそれぞれ読み解いていき、この作品の魅力についてご紹介していきたいと思います。



1.『車輪の下』からみる「国家↔市民」の二項対立

 今作でみられる代表的な二項対立要素として分かりやすく描かれているものとしては、「国家↔市民」が挙げられるでしょう。



「神学校の生徒は官費で生活し勉強することができる。そのかわり、政府は、生徒たちが特別な精神の子となるように配慮している。その精神によって彼らはのちになっても、いつでも神学校の生徒だったということが見分けられる。――それは一種の巧妙なしかも確実なしるしづけである。自発的な隷属の意味深い象徴である。」(本文より引用)



 教育というのは一種の洗脳であり、それが国家構成員養成のためのものであればあるほど、国家(政府) はより強固に市民を上手く扇動し、自ら国家に適した人物像を目指し成長するよう仕向けていく。この一節からは、ヘッセなりの社会構造に対する解釈が述べられているのです。


 また、生徒らにとってある種のヒーロー的存在であった「熱情的な少年」ハイルナーは、学校側から「放校に処せられ」、「不逞漢」とも表現されています。

 ここでは、市民らと政府間の捉え方の違いが顕著に現れており、巧みにどちらの視点にも立って表現を変えることで、上手く「国家↔市民」の二項対立を表現しているといえるでしょう。


 さらに、この作品の大きな舞台となる神学校のクラスごとのへやには、それぞれ象徴的な名前がついているのですが、「ヘラス」(ギリシアの古名)べやに革命家ハイルナーと脱落者ギーベンラートが所属していることは、まさに、作品内における、神学校(国家)↔市民(「ヘラス」べやの生徒)の対立関係を証明しているといえます。(そのほかの部屋は「アテネ」と「スパルタ」ですしね。地理と歴史を考えれば、狙っているとしか思えないんだよなぁ)



2.「大人になること」=罪の自覚?

 今作の構成は大きくわけて幼年期、少年期、そして青年期となっていますが、少年から青年へと移行する場面はちょうど作品の中間地点に存在しています。


 ギーベンラートが ハイルナーと関係を断ってしまっていたある時、同じ「ヘラス」仲間であったヒンディガーという生徒が死んでしまう。仲間の「死」という、ダイレクトに情緒を揺さぶる場面にて、ギーベンラートは少年期独特の「急な衝動」(本文第4章からもわかる)にかられる。そこで、なんとかしてハイルナーと仲直りを果たそうとするが、ハイルナーに「拒絶」されたことで、彼の中で「罪の意識」が芽生える。


 少年から青年へと成長する第一歩として、精神の未熟さ故に引き起こした罪を自覚することが必要です。


 そのためには、自らの制御しきれない情動を引き起こすための感情装置(=死)が必要であり、その後、罪を自覚した上でそれは決して容認されることがないんだと、他者からの「拒絶」を通して、自己と他者の違い・大人社会の不条理さを強制的に理解させるという一連の流れが発生します。


 これが彼にとっての通過儀礼であり、見事ギーベンラートはその後青年へと成長したのです。


 ここでは、ヘッセの最も得意とする「大人になるとはどういうことか」が、彼なりの段階を提示しつつ表現されています。

 これが、『車輪の下』、もといヘッセ作品の最大の魅力であり、ほかの教養小説とは一線を画した特殊な性格であることを私は強く伝えたいのです。



おわりに

 本当は、作品内に散りばめられていた伏線だったりとか、「恋」と「欲望」の芽生えの表現の良さとか、色々語りたいことはあったのですが、今回はこの程度で締めておきましょう。

 ヘッセはこれからも積極的に読んでいきたいな。


 以上、ご精読ありがとうございました。



(勝手に大文字表記になるのどうにかならないかなぁ…)

~2人のヴィーナス、そして、真贋~原田マハ 『楽園のカンヴァス』

『アートを理解するということは、この世界を理解する、ということ。アートを愛するということは、この世界を愛する、ということ。』(本文 引用より)

どうも、aruhonzukiです。

はてなブログで書評、というと偉そうですが、本について詳しく書かせていただくのは初めてです。

ここでは、本を読んで思ったことなどについて、ちまちま独断と偏見で書いていこうと思っています。

第1回目は原田マハさんの『楽園のカンヴァス』です。原田マハさん作品はこれが初めてですが、絵画をモチーフにされる方であると知り、興味を持ち、この作品を手に取りました。※ここからネタバレ含みます。まだ読了しておらず、今後読もうと思ってる方はブラウザバックしていただくことをおすすめします。

1.ヴィーナス~2人の『ヤドヴィガ』について~

まず話しておきたいのが、2人の『ヴィーナス』について。言わずもがな、先に出てくるのは、もちろんアンリ・ルソーにとってのヴィーナスであった、ヤドヴィガではありますが、実はもう1人隠れていると私は思うのです。

それが、ティム・ブラウンのライバルであり、恋した相手である、早川織絵…もといオリエ・ハヤカワです。

①登場の度、誘惑の香りの描写

これはオリエ・ハヤカワに限ったものになりますが、特に、序盤のシーンでしつこく出てくる「南国の甘い香り」の言葉。ヴィーナスというよりどちらかというと魔性の女であるかのように思わせる表現ですが、その魅惑の香りを匂わせてこそ、男性を惹き付けるヴィーナスたる所以であるかのように感じられます。

②彼らが行き詰まる度現れ、癒しを与える

まずはヤドヴィガの場合。『第1章 安息日』で描かれた、ボンボン売りをした後疲れ果てて、窓を覗いたアンリ・ルソーの目に映るヤドヴィガ。彼女の姿を目にしたり、話を交わすだけでも癒しを得ている様子は、まさにヴィーナスに微笑まれた男のようです。その後もヤドヴィガか意図せずともアンリ・ルソーにとってのヴィーナスであった記述が続いていきます。

そして、オリエ・ハヤカワの場合。ポール・マニングに脅迫めいた提案を受けてしまい、憔悴しきったティム・ブラウンを連れ出し動物園へと誘い出す彼女。動物園でオリエとゆったり話を交わすことにより彼の心は落ち着いていきます。また、思わずオリエの真実をコンツから聞かされ動揺していた彼に、自身の口から真実を告げ、心から微笑んだ彼女。それを見て決心がつき、それから、本当に心から彼女の幸せを願ったと後にティムは語ります。(また、彼女と2人で過ごすこの時間が楽園であったみたいなことも書いてありましたしね。「夢」の楽園にいるヤドヴィガと一致するということです。)

また、キャラの立ち位置で見ても分かると思います。ボンボン売りをしながらひたすら絵を描くだけの「日曜画家」の後、有名画家へとのし上がっていったアンリ・ルソーと、洗濯女であり人妻であったヤドヴィガ。そして、「アシスタント」の名を棄てるべく、勝負を受け、見事チーフ・キュレーターとなったティム・ブラウンと、一図書館の監視員であり人妻の早川織絵。関係性構図がよく似ていると思いませんか?

癒しを与え、心を動かす存在。

まさにこの2人の女性は、彼らのヴィーナスであったに違いありません。

2.真作、贋作~ハリボテ2人の闘いとその決着~

そしてもうひとつ語っておきたかったのが今作での闘いのテーマでもあった「真作、贋作」について。

これは「夢」と「夢を見た」についてのテーマでもありましたが、私はライバルであった2人、ティムとオリエのことであるようにも感じました。

地方の一美術館の監視員でありながら、実は昔美術史論壇を賑わせた才女のオリエ・ハヤカワ。

一流キュレーターを名乗っているが、実はアシスタントに過ぎないティム・ブラウン。まるで「真作」と「贋作」を意識したかのようなライバル関係ですね。

また、最後の「夢を見た」の講釈シーン。最初はオリエを思い、贋作だと偽ったティムでしたが、オリエが思わず自らの研究者としての立場を失ってまで、「情熱がある…これは真作です」と心から本物だと言い切った態度につられ、「これはアンリ・ルソーの最高傑作だ」と本物であることを主張した彼。結果、彼の講釈の方が研究者として筋が通っており面白いと認められ勝つ様は、彼が偽物のトム・ブラウンとしてでなく、研究者としてのティム・ブラウンであることを認められたように思います。そして、散々、真作か贋作か問われた「夢」と「夢を見た」も、後に両方の画家の「真作」であるかのように示されていることからも、2人のハリボテであった彼と彼女はちゃんと2人とも本物であったのだと語っているかのようです。

……とまぁ、長々と拙く語りましたが、この作品からはたくさんの「情熱」がぶつけられているように思いました。本当にその一言に尽きます。

今後も、原田マハさんのアツい絵画×小説作品を読んでいきたいと思いました。

ありがとうございました!