生の淵~短編~
生の淵に立っている。
正確には立っているのではなく、淵に足をかけて、そのままぶら下がっているという方がよいのかもしれない。
これは、わたしの意思でこうなっているのではない。
わたしは、だれかの意思で、この世に生み落とされ、だれかの意思で、この淵に足をかけさせられ続けている。
こんな脆い呪縛など、わたし自らの意思で、重心を揺り動かせば解けるというのに。
もしくは、わたし自らの意思と、だれかの意思が、互いに維持に限界を迎え、衰弱したとしたら。
それでもなお、こうして足をかけているのは、だれかの意思が、わたしのつま先を絡みとって離さないからであり、わたし自らの意思もまた、それを拒まず、その呪縛を受け入れ支えられることを受容したからにちがいないのである。
しかし、生の地は波打つ。
微かな地響きが、わたしのつま先を掠め取ろうと、静かに、明確な意思をもって、わたしに襲いかかってくる。
その度に、かりそめの呪縛は弛み、一つひとつ、わたしから離れていく。
わたしはそれを拒まず、ただ、生の揺れに身を任せ、ただ、誰かの意思が緩むのを待ち、ただ、わたしの生の行く先を見据えるのみである。
だが、その揺れも長く持続するものではない。
しだいにそれが収まれば、触手はまた、静かに迫ってわたしの指を求め、掴み取り、わたしはまたそれを受け入れる。
なにも変わらない繰り返し。
わたしが「生きる」ことは、この繰り返し。
ただひとつ言えるのは、あらゆる意思の外側で、わたしのつま先は一歩ずつ、確かに、淵の終わりへとずれ進んでいる。
そして、わたしはただひたすらに、眼下に広がる死の世界を、いつまでもいつまでも見つめながら、この生の淵に、足をかけ続けているのだ。