本について語りまSHOW

読んだ本について独断と偏見で語っていこうと思います。

~二項対立と教養小説的知見からみるヘッセの魅力~ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

 こちらでは本当にお久しぶりです、aruhonzukiです。


 初回と前回までは自分の専門(?)分野ではない現代作品について語らせていただきましたが、今回もまだまだ専門外の海外作品について語りたいと思います。


 さて、皆さんおなじみヘッセといえば、「そうかそうか」君の登場する「少年の日の思い出」にもあるように、子どもから大人へと成長するまでの過程を通過儀礼も含め、あるモチーフとともに描いている作家というイメージが(私の中で)あります。


 そこで、今回は「大人になるとはどういうことなのか?」に対するヘッセの解釈と、作品内における二項対立要素である「国家↔市民」が表れている箇所についてそれぞれ読み解いていき、この作品の魅力についてご紹介していきたいと思います。



1.『車輪の下』からみる「国家↔市民」の二項対立

 今作でみられる代表的な二項対立要素として分かりやすく描かれているものとしては、「国家↔市民」が挙げられるでしょう。



「神学校の生徒は官費で生活し勉強することができる。そのかわり、政府は、生徒たちが特別な精神の子となるように配慮している。その精神によって彼らはのちになっても、いつでも神学校の生徒だったということが見分けられる。――それは一種の巧妙なしかも確実なしるしづけである。自発的な隷属の意味深い象徴である。」(本文より引用)



 教育というのは一種の洗脳であり、それが国家構成員養成のためのものであればあるほど、国家(政府) はより強固に市民を上手く扇動し、自ら国家に適した人物像を目指し成長するよう仕向けていく。この一節からは、ヘッセなりの社会構造に対する解釈が述べられているのです。


 また、生徒らにとってある種のヒーロー的存在であった「熱情的な少年」ハイルナーは、学校側から「放校に処せられ」、「不逞漢」とも表現されています。

 ここでは、市民らと政府間の捉え方の違いが顕著に現れており、巧みにどちらの視点にも立って表現を変えることで、上手く「国家↔市民」の二項対立を表現しているといえるでしょう。


 さらに、この作品の大きな舞台となる神学校のクラスごとのへやには、それぞれ象徴的な名前がついているのですが、「ヘラス」(ギリシアの古名)べやに革命家ハイルナーと脱落者ギーベンラートが所属していることは、まさに、作品内における、神学校(国家)↔市民(「ヘラス」べやの生徒)の対立関係を証明しているといえます。(そのほかの部屋は「アテネ」と「スパルタ」ですしね。地理と歴史を考えれば、狙っているとしか思えないんだよなぁ)



2.「大人になること」=罪の自覚?

 今作の構成は大きくわけて幼年期、少年期、そして青年期となっていますが、少年から青年へと移行する場面はちょうど作品の中間地点に存在しています。


 ギーベンラートが ハイルナーと関係を断ってしまっていたある時、同じ「ヘラス」仲間であったヒンディガーという生徒が死んでしまう。仲間の「死」という、ダイレクトに情緒を揺さぶる場面にて、ギーベンラートは少年期独特の「急な衝動」(本文第4章からもわかる)にかられる。そこで、なんとかしてハイルナーと仲直りを果たそうとするが、ハイルナーに「拒絶」されたことで、彼の中で「罪の意識」が芽生える。


 少年から青年へと成長する第一歩として、精神の未熟さ故に引き起こした罪を自覚することが必要です。


 そのためには、自らの制御しきれない情動を引き起こすための感情装置(=死)が必要であり、その後、罪を自覚した上でそれは決して容認されることがないんだと、他者からの「拒絶」を通して、自己と他者の違い・大人社会の不条理さを強制的に理解させるという一連の流れが発生します。


 これが彼にとっての通過儀礼であり、見事ギーベンラートはその後青年へと成長したのです。


 ここでは、ヘッセの最も得意とする「大人になるとはどういうことか」が、彼なりの段階を提示しつつ表現されています。

 これが、『車輪の下』、もといヘッセ作品の最大の魅力であり、ほかの教養小説とは一線を画した特殊な性格であることを私は強く伝えたいのです。



おわりに

 本当は、作品内に散りばめられていた伏線だったりとか、「恋」と「欲望」の芽生えの表現の良さとか、色々語りたいことはあったのですが、今回はこの程度で締めておきましょう。

 ヘッセはこれからも積極的に読んでいきたいな。


 以上、ご精読ありがとうございました。



(勝手に大文字表記になるのどうにかならないかなぁ…)